戦国時代検定(12/04)

12/3に回収してSとれなくて、4日に回収したもの。
それでもSとれなかった(´・ω・`)

[3958]
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答え:わきざかやすはる
脇坂安治。秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の最年長武将。

[3960]
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答え:徳川家康
徳川家康の征夷大将軍任命と、徳川慶喜の大政奉還がおこなわれたところ。

[3961]
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答え:きたのまんどころ
政所と書いてまんどころと読みますが、北との間に「の」が入ります。北政所は摂政関白の正室に与えられる称号です。寝殿造りにおいて「北対」とよばれる私室があり、そこの一切の決裁を行なっていたことから正室は北の方とも呼ばれますが、館主が三位以上になると政所を持つことから、北政所と呼ばれるそうです。

[3962]
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答え:さたけ(佐竹)
佐竹氏は常陸の国(現在の茨城県の大部分)の大名。「鬼義重」の由来は、北条氏との戦いで敵を一瞬で7人斬り伏せたことから。

[3964]
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答え:3.(夏)
1614年の大阪冬の陣→1615年の夏の陣。この戦いで豊臣氏が滅亡。

[3965]
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答え:アンジロー
弥次郎ともいわれます。現在の鹿児島県の出身の日本人で、ザビエルが日本を去ったあともキリスト教の布教につとめたといわれます。鹿児島のザビエル公園には、ザビエルとともに銅像があります。

[3966]
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答え:D.(宇喜多秀家)
宇喜多秀家は備前(現在の岡山県東南部)の大名・宇喜多直家の次男として生まれ、織田家→豊臣家と仕えました。関ヶ原の戦いでは西軍として参加し、西軍の敗北以降は島津のもとへ落ち延びましたが、のちに家康のもとに引き渡され、八丈島への流刑になります。関ヶ原の戦いの武将では最も遅くに没した人物です。
小早川氏も山陽地方に馴染みの深い人物ですが、小早川隆景は関ヶ原の戦いの前に没しています。関ヶ原の戦いに西軍として参加し、裏切り、この戦いの趨勢に大きな影響を与えたのは、息子の小早川秀秋です。秀秋は関ヶ原の功績を讃えられ、のちの備前岡山藩主となりました。

[3967]
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答え:神指
会津若松市にある城は鶴ヶ城(会津若松城)しか思いつかなくて選択肢がなくてしょぼーんとした一問。答えは、神指(こうざし)城。鶴ヶ城は1593年に蒲生氏郷が築城したもの。鶴ヶ城が会津若松市の中心部にあるのに対し、神指城の跡は南西に少し離れたところにあります。1600年に12万人を動員して築城が開始されますが、天守閣着工の前に家康の会津征伐がはじまり工事は中断。関ヶ原の戦い以降は完成を待たずして神指城は破棄されてしまいます。
直江兼続は上杉景勝の家臣で米沢を収めていました。

[3968]
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答え:○
濃姫は斎藤道三の娘で信長の正室。濃姫との間に子供はおらず、信長の嫡子は側室との間であったといわれます。

[3969]
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答え:摺上原
摺上原(すりあげはら)の戦い。現在の福島県猪苗代町付近での戦い。対するは会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍。この戦い自体は伊達政宗の勝利で終わりますが、当時蘆名氏は秀吉傘下の大名であったことから、のちに秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、翌年奥州全土への領土措置である「奥州仕置」が発令されます。一時は150万石近い領土を保有していた政宗ですが、これにより現在の福島県にあたる領土が没収、領土は半減してしまいます。

[3971]
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答え:家政
蜂須賀家政(はちすか いえまさ)。秀吉の重臣である蜂須賀正勝の子で初代徳島藩主。父の正勝は徳島城の完成を待たずして亡くなってしまいます。

[3973]
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答え:秀長
豊臣秀長は秀吉の弟。甥である秀次に対しては秀吉は冷たかった一方で(殺生関白)、秀長は豊臣政権の中核としてもてなされました。のちに大和・紀伊・和泉・河内110万石という、京都に近い重要な場所を統べる大大名となり、大和大納言とも呼ばれます。

[3974]
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答え:2.(今川義元)
今川義元は僧侶の出身。長宗我部元親は長宗我部家、つまり武家の出身で四国統一を果たしました。豊臣秀吉は農民の出身。

[3976]
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答え:A(今川義元の最期)
桶狭間ですぐにわかるでしょう。簗田政綱(やなだまさつな)、服部小平太、毛利新助ともに桶狭間の戦いにおける織田の武将で、それぞれ今川義元の場所を知らせた、今川義元に最初に斬りつけた、今川義元の首を取ったの武功があります。

[3977]
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答え:古天明平蜘蛛
こてんぴょうひらぐも。松永久秀が所有した茶釜で、九十九髪茄子については織田信長に進呈したが、これについては断固拒否したといわれます。後に久秀が信長に侵攻され自害するときに、この茶釜に爆薬をいれて茶釜ごと消滅したともいわれます。

[3978]
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答え:○
森蘭丸は信長に溺愛された若い武士で、本能寺の変では信長と共に最後まで戦い抜き討ち死にしました。このとき森蘭丸18歳、信長49歳。

[3979]
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答え:天と地と
1969年に放送された大河ドラマ。大河ドラマ初のカラー放送。

[3980]
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答え:よしおき(義意)
相模三浦氏最後の当主。三浦氏は室町幕府設立以降、武蔵・相模の地頭となりましたが、北条氏の台頭により1516年に滅亡。新井城は現在の神奈川県三浦市にある、城ヶ島に近い三浦半島の先端にあったお城。最後の当主・義意は、父・義同の切腹を見届けたあと、敵陣に突撃して討ち取られたとか。

[3981]
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答え:CAB(塵芥集→結城家法度→朝倉孝景条々)
塵芥集が171条で最多(伊達氏)。結城家法度は下総の結城家が制定した分国法で、すべてで107条。朝倉孝景条々は越前国(現在の石川県能登半島を除く部分)の守護朝倉孝景が制定したもので、全17条。

[3983]
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答え:123(石田三成、小西行長、長宗我部盛親)
石田三成は確定。長宗我部盛親も支配地域を考えるとおそらく西軍(本当は東軍に与しようとしていたそうです)。小西行長は迷いますが、秀吉の重臣であり、文禄・慶長の役で活躍したことを踏まえると、秀吉に近い人物であり西軍が妥当。

[3985]
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答え:くちばみちよし
口羽通良。毛利四人衆のほかには小早川隆景など。

[3987]
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答え:C.(佐々成政)
氏家卜全、稲葉一鉄は美濃の三人衆なので×。府中三人衆の府中とは東京の府中ではなく、越前(現在の石川県能登半島以外の地域)の国の地名。府中三人衆は越前、加賀の一向一揆鎮圧のために出陣した柴田勝家の部下で、前田利家・佐々成政・不破光治がこれにあたります【問題はこれで確定】。Dの堀尾吉晴は信長、秀吉と仕え、豊臣政権では三中老ににんぜられます。
黒母衣衆は信長の近衛兵の一部隊(他に赤母衣衆)。佐々成政はこの筆頭として活躍します。最期は豊臣時代、太閤検地に反対する国人一揆を抑えきれなかったため、責任を取り切腹。

[3988]
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答え:人取
人取橋は現在の福島県本宮市で、郡山と二本松のちょうど中間あたりにあります。伊達政宗の戦いの中では比較的前期の戦いです。

[3989]
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答え:ABCD(霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫家郷の遠征を憶う)
七尾城は現在の石川県七尾市にあったお城。七尾城の戦いは、上杉謙信と能登畠山氏との間の1577年の戦いで、この戦いで上杉は勝利、畠山氏は滅亡します。なおこの漢詩は土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲による「荒城の月」の2番の元ネタとなっていて、
  秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
  植うる剣(つるぎ)に照り沿ひし 昔の光今いづこ
となっています。こちらの歌のほうが有名なので、秋陣営と雁、そして漢詩の特徴から遠征において感慨深く浸っているDが末尾となることを考えると、自然と順番が確定できます。

[4001]
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答え:B.(彦根城)
井伊直弼が有名な井伊氏は幕府の重臣で彦根藩。彦根城は国宝で、見分け方としては横から見て屋根の「へ」の形が上1下3になっているもの。

[4003]
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答え:1.(前田玄以)
いずれも秀吉に馴染みが深い人物ですが、五奉行はそれぞれ司法、行政、土木、財政、宗教担当で位置づけです。五奉行にいたからといって有力大名かというとそうでもなく、有力な傘下の大名はどちらかというと五大老に分類されます(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家などがこちら)。五奉行には浅野長政、石田三成、増田(ました)長盛、長束(ながつか)正家、前田玄以(げんい)、が任ぜられます。筆頭は浅野長政。

[4005]
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答え:132(太田道灌-鶴千代、織田信忠-奇妙丸、三好長慶-千熊丸)
太田道灌の幼名は鶴千代、後に江戸城を築城した人。幼少から大変賢かったそうです。
織田信忠は信長の嫡男で、本能寺の変のあとに明智軍に同様に包囲され自刃。幼名は奇妙丸。織田信長の息子の幼名は変な名前が多いです。
三好長慶は近畿阿波の大名で、幼名は千熊丸。幼い時から割りとがっちりとした体型だったとか。

[4006]
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大意;この家紋の戦国大名は何家?
答え:2.(島津家)
大きな十字が特徴。キリスト教伝来の前からこの家紋を用いていました(島津はキリシタン大名でもないので、十字架由来でこの家紋を用いたというのは説得力に欠けるでしょう)

[4007]
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答え:快川紹喜
かいせんじょうき。海鮮丼みたいな名前でおいしそうなかんじですが字は違います。紹は紹介や紹興酒などで「しょう」と読みますが、これが濁ったものでしょう。武田氏滅亡の混乱に乗じて六角氏を寺(恵林寺:現在の山梨県にある)にかくまっていたため、織田信忠によって寺ごと焼き討ちされてしまいました。心頭滅却すれば火もまた涼しとは、そのときの快川の辞世の句であったといわれています。

[4008]
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答え:松永久秀
松永久秀は三好家の家臣でしたが、三好氏では三好三人衆や松永が実質的な権力をおもっていたため、主君がほぼ傀儡状態であったといいます。後に織田信長の家臣となります。

[4009]
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[4009]
答え:ねづじんぱち
根津甚八。真田十勇士の中でフルネームがひらがな6文字以下の武将はこの人だけ。真田幸村の家臣で水軍の扱いに長けていたといわれます。

[4010]
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答え:仙石秀久
せんごくひでひさ。小諸だから場所的に真田かなとおもったら違った一問。宮下英樹の漫画『センゴク』(ヤングマガジン)の主人公。秀吉の武将でしたが、島津征伐の失敗で叱責され領地没収の上追放されますが、小田原征伐で「無」の旗を掲げて家康軍に加わり、のちに秀吉に認められ小諸城主に返り咲きます。

[4011]
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答え:2.(信秀)
残る選択肢はすべて信長の兄弟。

[4012]
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答え:ノビスパン
漢字を音読みしていけばなんとなくわかるでしょう。ノビスパンは、ノバーイスパニアの略でスペイン植民地時代のメキシコをさします。

[4013]
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答え:ひよし
秀吉の幼名は日吉丸。家康は竹千代。信長は吉法師(きっぽうし)。

[4014]
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答え:織田有楽斎

[4015]
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答え:○
龍造寺隆信は肥前(現在の佐賀県、長崎県)の大名。沖田畷(おきたなわて)の戦いは、1584年に有馬・島津連合軍が龍造寺軍を破ったもの。兵力にして龍造寺軍は、有馬・島津連合軍の数倍はあったといわれますが、島津の釣り野伏せの戦法の前に包囲され、四天王といわれた家臣を全員失ってしまいます。これにより、龍造寺氏は急速に衰退し、島津氏が九州での版図を広げていくことになります。

[4016]
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答え:○
×な問題は毛利元就。毛利元就は毛利輝元の祖父。

[4017]
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答え:A.(竹)
Bは松。上杉謙信の家紋は「竹に飛び雀」と呼ばれる絵柄です。

[4018]
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答え:3,(兼明親王)
かねあきらしんのう。兼明親王は平安時代の貴族で、七重八重~の和歌は後拾遺和歌集に収録されているもの。これは落語の『道灌』という有名な演目で引用されている一句で、道灌が蓑を借りに農家に入ったところ、農家の娘に山吹の花を渡された。蓑がほしいのに花を渡すとはなにごとぞと道灌は怒ったが、これは後拾遺和歌集の和歌を引用したものであり、蓑と山吹の実、さらには貧乏で蓑すら持ち合わせていないということを掛けて述べたものであるということに、後に家臣から気付かされ、以降道灌は歌道に励んだ―という内容です。

[4019]
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答え:七尾
畠山氏がよくわからなくても、地理的に考えて七尾しか当てはまりません。七尾城の戦いは畠山氏と上杉謙信の戦い。

[4020]
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答え:朝倉宗滴
あさくらそうてき。越前朝倉氏の重鎮。宗滴が残した家訓や戦陣訓をまとめたものが『朝倉宗滴話記』で、「武者は犬どもいえ~」はこの中の言葉。武士は何と言われようが勝つことが重要だよという意味でしょうか。

[4021]
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答え:B.(九鬼嘉隆)
説明の通りで、信長秀吉のお抱え水軍として活躍。海賊というイメージだけだと島津を選びやすいですが…。

[4022]
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答え:直江兼続
兼続のつぐは次ではなくて「続」であるのに注意。直江兼続は上杉氏の家老で、大河ドラマ『天地人』では主人公。

[4023]
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答え:A.(稲葉一鉄)
美濃三人衆なのでAの稲葉一鉄かDの安藤守就。このうち僧侶から還俗したのは稲葉一鉄。稲葉一鉄は幼い時に僧侶になっていましたが、父と兄が戦死したことから家督を継いぎました。

[4024]
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答え:多聞
たもんやぐら。文字通りの意味で、現存するのは大阪城のものです。大手門を入ってすぐの、内部の門の上に横たわる長屋のような感じの作りらしいです。

[4025]
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答え:○
三方ヶ原(みかたがはら)の戦い。現在の静岡県浜松市。1573年に武田軍が徳川軍を破った戦いです。この教訓はのちの長篠の戦いで生かされることになります。

[4026]
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答え:B.(朝倉氏)
景がつくので上杉氏と紛らわしいですが、朝倉氏です(上杉氏だったら謙信とかもっとわかりやすいヒントがくるはず)。朝倉家景は第6代、朝倉貞景は第9代、朝倉教景は第5代、朝倉義景は第11代で最後の当主。

[4027]
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答え:三好氏
消去法で考えると三好しか残りません。主な守護地は六角氏は近江、佐竹氏は常陸、龍造寺氏は肥前。徳島県には三好市があります(三好長慶の出身氏は現在の徳島県三好市ですが、直接関係あるのでしょうか)。

[4028]
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答え:ちょうきょう
長享。1487年から1488年までたった3年しかなかった元号です。

[4029]
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答え:×
小牧・長久手の戦いは秀吉が家康軍に敗れた戦い。この責任を取ってのちに出家したのは滝川一益。滝川益重(ますしげ)は一益の家臣で、いとこではないかと言われています。

[4030]
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答え:1582
覚え方をググったら、いちごパンツの明智光秀というのがw爆笑したんですぐ覚えられましたけどww

[4031]
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答え:231(黒田長政、最上義光、田中吉政)
黒田長政はもともとは秀吉の家臣で、正室に蜂須賀正勝の娘をもらうなど比較的秀吉に近い人物でしたが、朝鮮の役以降小西行長や石田三成と対立したことがきっかけで、関ヶ原の戦いでは東軍として参加します。関ヶ原では小早川らの寝返りの交渉もつとめており、この功績が高く評価され、後に筑前福岡藩初代藩主となります。
最上義光は出羽の戦国大名で、伊達政宗の叔父。
田中吉政は近江の出身の武将で、豊臣秀次に仕えました。秀吉が秀次以下家臣を大量に粛清した一方で、吉政ら宿老にはお咎めなしだったそうです。この後関ヶ原では東軍に属し、戦後家康から筑後(現在の長崎県、佐賀県、熊本県の中間)を与えられ拠点を柳川城におきます。

[4089]
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答え:4.(竹中直人)
『秀吉』は1996年放映の大河ドラマ。原作は堺屋太一、主演は竹中直人。秀吉を題材にした大河ドラマはその約30年ほど前、1965年の『太閤記』があり、こちらの主演は緒形拳。

[4090]
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答え:コレジオ
イエズス会の大学と聞いて上智大学しか思い浮かばなかった(´・ω・`) イエズス会の神学校は世界に多くあるそうですが、聖職者の養成を目的とされたものはコレジオと言います。特に戦国時代で創設されたものは、豊後の国に(現在の大分県大分市)キリシタン大名大友宗麟の庇護のもとで建設されました。
英語のコレッジに近い名前です。

[4091]
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答え:3.(秀吉)
この検定でさんざん出てきた賤ヶ岳の七本槍のですが、これは秀吉の家臣です。織田信長亡き後の後継者問題で、柴田勝家と秀吉の間でバトルしたのが賤ヶ岳の戦い。

[4092]
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答え:C.(平手政秀)
ひらてまさひで。平手政秀は織田信秀時代からの家臣で、信長の教育係を務めていました。信長の奇行を「うつけもの」と諌めていました。現在の愛知県名古屋市には、信長が政秀を弔うための寺として政秀寺(せいしゅうじ)を建立します。

[4093]
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答え:B.(柳生宗厳)
かなり難しめの問題ですが、第4選択肢でわかってしまうでしょう。柳生新陰流からは江戸時代の天才剣士・柳生十兵衛が生まれます。

[4094]
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答え:231(伊達政宗-片倉景綱、武田信玄-真田幸隆、龍造寺隆信-鍋島直茂)
とりあえず真田は武田の家臣だけど残りは…で詰まった問題。伊達政宗の軍師は2の片倉景綱で、片倉小十郎とも呼ばれます。知将として知られ、その才は奥州仕置の際、秀吉が家臣として迎えようとしたほどだとか。
鍋島直茂は龍造寺の軍師。大変タヌキおやじなイメージが強いとか。
真田幸隆は文字通り武田氏の軍師で、真田幸村の祖父にあたります。

[4095]
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答え:1.(花の慶次)
花の慶次は傾奇者(かぶきもの)として知られる前田慶次郎を描いたもの。はいからさんが通るは大正時代。あさきゆめみしは源氏物語を漫画化したもので、舞台は平安時代。

[4096]
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答え:213(毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛)
五人衆は関ヶ原の戦い以降、徳川にお家取りつぶしなどにあい徳川に不満を持っているものたちを、豊臣が寄せ集めで集結させたもの。真田幸村や長宗我部盛親など。他には、毛利勝永(豊臣秀頼の介錯をしたとした人)、備前宰相宇喜多秀家の軍師・明石全登(あかしたかのり)、黒田氏の家臣であった後藤又兵衛がいました。

[4097]
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答え:一地一作人の原則
太閤検地以前の土地制度が長く続いたこともあり、権利関係が複雑化したのを整理する目的で行ったそうです。一つの土地に一人の耕作人を登録することで、農民を直接領主の支配のもとにおきます。

[4098]
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答え:○
秀吉の軍師というと竹中半兵衛と黒田官兵衛の2人がいます。後の海援隊の曲『二流の人』も同様に黒田官兵衛について歌ったものです。
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Author:こしあん
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