戦国時代検定(12/03)

[3780]
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答え:B
右が伊達政宗。兜の飾りがV字になってるのが特徴。これは仙台の青葉山公園にある、小室達(とおる)作の銅像。

[3781]
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答え:D.(伊達氏)
第4選択肢でほぼ確定ですが、伊達吉村は江戸時代の大名で仙台藩第5代藩主。伊達宗綱は政宗の子供。伊達氏宗は室町時代の武将で、足利義満のいとこ。

[3782]
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答え:服部半蔵
忍者のイメージが強いですが、服部家の武将だそうです。忍者ハットリくんなど。

[3783]
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答え:李舜臣
りしゅんしん。文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いて日本軍と戦いました。

[3884]
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答え:○
江戸城築城で有名。日暮里駅前に銅像があります。

[3785]
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答え:○
織田信長、豊臣秀吉は尾張の国、徳川家康は三河の国出身。どちらも現在の愛知県。

[3786]
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答え:4.(京都府)
現在の京都市内、河原町御池付近に存在。

[3787]
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答え:次第
甲州法度次第(こうしゅうはっと の しだい)。武田信玄が1547年に定めた分国法で、全57条からなります。

[3788]
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答え:B→C→A(桶狭間→姉川→天目山)
天目山の戦いは、1582年におこった織田と武田の戦いで、現在の山梨県で行われました。甲斐武田氏に終焉をもたらした戦いで、この戦いで武田側は織田軍に大敗北、当主勝頼は自刃しました。勝頼の像は甲斐大和駅前にあるそうです。
桶狭間の戦いは、1560年におこった織田と今川の戦いで、現在の愛知県豊明市で行われました。織田軍に対し、今川軍は兵力でその10倍以上だったにもかかわらず、今川側が敗北。今川義元は討ち死にしました。
姉川の戦いは、1570年の織田と浅井・朝倉の間の戦いで、合戦所は現在の山梨県長浜市です。同年に織田が浅井と結んだ朝倉への不可侵条約を破棄して、朝倉討伐をはじめたことが発端だとか。

[3789]
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答え:○
フロイス日本史。ルイス・フロイスはポルトガルのリスボン生まれのイエズス会の宣教師。

[3790]
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答え:3,1,2(氏家卜全、安藤守就、稲葉一鉄)
美濃三人衆はもともと美濃の斉藤の家老でしたが、三代目の斎藤龍興のときに斎藤氏を離反、織田氏の軍門に下ります。それぞれ、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤守就、稲葉一鉄。

[3791]
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答え:171
じんかいしゅう。陸奥国の戦国大名、伊達氏が制定した分国法。全てで171条からなり、分国法のなかでは最大の規模。ちなみに、電話番号の171は災害伝言ダイヤル。

[3794]
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答え:○
古くは井口(いのくち)と呼ばれた地名を、1575年に「井口を改めて岐阜とする」といったことが理由とか。

[3795]
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答え:細川勝元
分岐で、西軍の大将=山名宗全。応仁の乱をテーマにした1994年放映の大河ドラマは花の乱。

[3796]
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答え:2.(二公一民)
収穫量の2/3を年貢として納めなさいよという意味。五公五民は徳川吉宗が1716年から行った享保の改革で定めた年貢率。

[3797]
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答え:4.(豊臣秀次)
豊臣秀次は秀吉の甥に当たる人物で、はじめ三好康長に養子入りしていたことから、三好信吉と名乗っていました。
八幡山城は、現在の滋賀県近江八幡市にある城跡で、1585年に秀次が築城し、居城としていました。
小牧・長久手の戦いとは、1584年におこった、豊臣と徳川家康・織田信雄連合軍の戦いですが、このとき秀次は奇襲隊の大将として参加します。しかし、徳川軍の別の奇襲隊にこれをつぶされ、大敗北を喫してしまいます。
「殺生関白」とは、摂政関白からもじったものですが、秀次の横暴な様子をあらわした噂で、鉄砲の稽古と称して農民を撃ち殺す、側室の妊娠を聞くと腹を切り裂いて胎児の顔を確認するなどといったものです。しかし、これらは秀吉が秀次をつぶすためのものであるという可能性もあり、真偽は定かではありません。事実、1595年に秀次は秀吉に対する謀反の嫌疑により、家臣・一族郎党ともに粛清されてしまいます。八幡山城は築城後たったの10年で廃城となってしまいます。

[3798]
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答え:太閤
太閤検地などから。太閤のたいは「太い」のほうであるので注意。太閤とはもともと摂政・関白を子弟に譲った人に与えられる位で、特に戦国時代では豊臣秀吉のことをさします。

[3799]
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答え:1.(明)
室町幕府が明との間に行なっていた貿易を日明貿易といいます。海賊対策のために勘合符を用いていました。

[3800]
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答え:A.(虎)
加藤清正は秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。文禄・慶長の役で虎を退治し、秀吉に献上したといわれています。

[3801]
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答え:3.(浅井長政)
お市の方は信長の妹。1567年に織田・浅井の同盟として、浅井長政のもとに嫁ぎます。姉川の戦い以降は3人の娘と共に織田の元に引き取られ、信長の死後、秀吉の仲介により柴田勝家の正妻となります。

[3802]
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答え:2.(小田原北条氏)
北条幻庵は北条早雲の子供の一人で、戦国大名最長老としても知られます(97歳)。
北条綱成(つなしげ)は北条氏の家臣で、地黄八幡の猛将として知られます。
北条氏綱は北条氏康の父にあたる人物で、後北条氏2代目。
北条早雲はおなじみ後北条氏第1代の大名で、戦国大名の草分け的な存在。

[3804]
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答え:からすじょう
”うじょう”とも読みたくなりますが、こちらは岡山城の別名。

[3805]
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答え:安国寺恵瓊
あんこくじ えけい。伊予は現在の愛媛県。

[3806]
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答え:てんのうざん
山崎の戦いは、本能寺の変で信長が倒れた後、秀吉が明智光秀を討伐したもの。天王山はスポーツや政治などでも比喩として用いられます。実際の天王山は京都府の長岡京近くにあり、麓を流れる川はここで桂川・宇治川・木津川が合流し淀川となります。

[3807]
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答え:ひらのながやす
平野長泰。秀吉に使えたあとは、関ヶ原の東軍→二代将軍秀忠の旗本となりました。

[3808]
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答え:×
『独眼竜政宗』は1987年に放映された大河ドラマで、歴代平均視聴率3位。主演は渡辺謙。中井貴一は1988年放映の大河ドラマ『武田信玄』の主演で、こちらは平均視聴率歴代2位。

[3809]
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答え:蓮如
一向一揆とは浄土真宗本願寺派(一向宗)の信徒らがおこした一揆。蓮如自らが一揆を煽動したというよりも、応仁の乱以降の経済不安定により、不満をもった民衆が反抗するために蓮如を担ぎ上げたように見えますがいかがでしょうか。

[3810]
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答え:稲葉山城
いなばやまじょう。現在の岐阜県岐阜市にあり、もともとは斎藤氏の居城。桶狭間以降の信長の勢力拡大にともない、1567年に織田と斎藤の間で稲葉山城の戦いがおきました。この結果は織田の勝利で、斎藤氏は滅亡、稲葉山城を岐阜城(これが現在の岐阜の地名のもと)と改名した上で信長の居城となりました。信長が天下布武の朱印を用い、本格的に全国統一をはじめようとしたのもこの戦い以降です。

[3811]
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答え:かぶらや
矢の先に筒のような武具(鏑)を取り付け、弓で引くことでひときわ大きい音を放ちながら飛びます。

[3813]
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答え:えごうしゅう
堺のものが有名で、有力商人で構成されていたそうです。

[3815]
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答え:ACB(筒井順慶→豊臣秀長→石田三成)
島左近は通称で本名は島清興。大和国(現在の奈良県)生まれ。はじめは河内、紀伊(現在の大阪、和歌山)を収める畠山氏のもとに仕えましたが、畠山氏の没落以降、地元の筒井氏のもとに仕えました。そののち、秀吉の家臣である豊臣秀長のもとに仕え、最終的には石田三成の元に仕えます。1600年に関ヶ原の戦いで討ち死にしました。島左近をモチーフにした作品に、原哲夫原作の漫画『SAKON(左近) -戦国風雲録-』(週刊少年ジャンプ)があります。

[3816]
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答え:仮名目録
1526年に今川氏親が制定した仮名目録と、1553年にその子義元が制定した「仮名目録追加21条」を加えたもので、全54条からなります。後の武田氏の分国法「甲州法度次第」に影響を与えたといわれます。

[3817]
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答え:(佐賀県の部分)
名護屋城は現在の佐賀県唐津市に存在。秀吉が朝鮮出兵を行う際に前線基地として築城されました。

[3818]
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答え:佐久間盛政
賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変以降、旧織田の家臣である柴田勝家と豊臣秀吉の間の戦いで、織田の家督問題と秀吉の台頭の中で、かつての織田の家臣の中で勢力がわれたことが背景にあります。
佐久間盛政はかつての織田の家臣のひとりでしたが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家側につきました。賤ヶ岳は現在の長浜市にあり、琵琶湖の北東にある小さな湖・余呉湖の沿岸が舞台となっています。賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が岐阜へいったことを期に、盛政は東の大岩山にある砦に奇襲をかけようとしました。しかし、これが結果的に勝家側の兵力を分散させてしまうことになります。揖斐川の氾濫で大垣にとどまっていた秀吉がこの襲撃を聞くと、強行軍により大軍を近江に帰還させます。結局勝家の軍は各個撃破されて戦いに敗北してしまいます。佐久間盛政はこの戦いでは生き残りましたが、後に秀吉のもとに引き出され、京市中を引き回しの上処刑されました。

[3819]
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答え:搦手
搦手門(からめてもん)。城の表門は大手門といいます。大手門が立派であるのに対し、裏門である搦手門は比較的小さいものが多いです。

[3820]
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答え:伏見
京都にあるお城で二条城か伏見城か迷いましたが、秀吉にとって馴染みが深いのは伏見城のほう。二条城は徳川家康によって築城されました。

[3821]
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答え:×
毛利輝元は豊臣政権五大老のひとりで、関ヶ原の戦いの西軍の総大将。父は毛利隆元で、毛利元就は隆元の父、すなわち輝元にとっては祖父にあたります。「三本の矢」は毛利元就が、息子の隆元・元春・隆景に対して一族の結束を説いたものです。

[3822]
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答え:おおい(大井)
大井の方または大井夫人。大河ドラマの『武田信玄』ではナレーション役もつとめました。

[3823]
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答え:ABDC(順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元)
意味はこちらを参考:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116235096

漢詩なので起承転結になるように並び替えればOKです。第1句では順序の話をしています。そして第2句では人の守るべき道(大道)とはなんであろうかという話をしており、これは第1句の順序の話を引き継ぎ、より具体的な形に膨らませた形になっています<承>。第3句では55年の人生、これは明智光秀自身について言ったものですが、前の句とはがらりと内容がかわります<転>。最後に、第4句では第3句で述べた夢を覚めるという形で引き継ぎ、第1,2句で述べた大道の話題を、人生という夢が覚めればその答えに達するであろう、というように帰結させています<結>。
間違いやすいのが第1句と第2句の配置だと思います。先に大道という具体的な話題を投げかけずに、順序という漠然とした形でふることで、第2句での大道の順序というものをより強調する形になっているのではないでしょうか。

[3824]
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答え:A.(古田織部)
ふるたおりべ。織部は茶名で、名前は古田重然。美濃国出身で、織部焼きの創始者。千利休に弟子入りし、のちの利休七哲のひとりに挙げられます。山田芳裕作の漫画『へうげもの』(モーニング連載)はこの古田織部を主人公としたものです。
(こんな問題でるんならへうげもののアニメちゃんと見ておけばよかったよパパン…)

[3825]
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答え:123(お江与-徳川秀忠、茶々-豊臣秀吉、初-京極高次)
戦国時代の裏の3人ともいわれるお市の方の娘。3人とも浅井長政との間に生まれました。長女の茶々は豊臣秀吉の側室とり、淀殿と呼ばれます(こちらの名前のほうが有名かも)。次女の初は、近江の大名・京極高次の正妻となり、浅井の血筋が引き継がれることになりました。お江与は江(ごう)と呼ばれることも多いですが、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室となります。2011年の大河ドラマはこの江を題材としたものです。

[3826]
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答え:本多作左衛門重次
普通は本多重次と言いますが、なぜこの問題だけ通称もいれてるんだろうw並べ替えるときはひたすらわかるづらいので、本多と重次を前後に作って、左衛門はひとかたまりにできるから、問題分のヒントの鬼作左から作左衛門を作って、本多と重次の間に挿し込むとかそんなめんどくさいことを。
本多作左衛門重次(本多重次)は、徳川家康の三河時代からの家臣で三河三奉行の一人としてあげられます。豪快な性格の持ち主で、高札に「まもらねば、さくざがしかる」と書いたら、たちまち民衆が従うようになったという逸話があるとか。

[3827]
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答え:12(立花道雪、角隈石宗)
大友宗麟は豊後(現在の大分県)のキリシタン大名。この選択肢のなかでは立花道雪、角隈石宗が大友氏の家臣で、3の松田憲秀は後北条氏の家臣。

[3828]
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答え:A.(柴田勝家)
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れたほう。長光寺城での瓶割りは、信長の朝倉攻めの際に柴田軍が籠城戦で水を断たれた際に、水の入った瓶を割り水の豊富さを示すことで、間者の目を欺き兵士の士気を向上させる狙いがあったとか。

[3830]
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答え:豊臣秀頼
豊臣秀頼は秀吉と淀殿の間の嫡子で、秀吉の跡取り。1603年に江戸幕府がはじまると同時に家康の命により、7歳の千姫は11歳の秀頼と政略結婚させられることになります。これはいわば幕府に対して反逆行為にでないよう、お目付け役に近いようなものではないでしょうか。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、千姫は家康の命により救出され、翌年の1616年に桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚します。

[3831]
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答え:たけちよ
豊臣秀吉の幼名は日吉丸ですが~からの分岐。徳川家康の幼名は竹千代で、三河の松平氏のもとに生まれます。

[3832]
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答え:くき(九鬼)
九鬼嘉隆(くきよしたか)。志摩の出身。鉄甲船は織田信長が毛利討伐の際に、九鬼嘉隆に命じて作らせたもの。織田と豊臣のお抱え水軍として、文禄の役にも参加しました。

[3833]
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答え:1(三河)
尾張の一部、三河、遠江、駿河(現在の愛知県東部と静岡県中西部)。東に北条氏がいるので武蔵までは勢力を伸ばせません。

[3834]
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答え:1.(吉乃)
織田信長の正室は斎藤道三の娘の濃姫ですが、濃姫と信長の間に嫡子はいないという説が有力だそうです。長男の信忠、次男の信雄(のぶかつ)を生んだとされるのは側室の生駒吉乃(いこまきつの)で、馬借の娘だとか。

[3835]
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答え:臼井
現在の千葉県佐倉市にあった城。上杉謙信の関東方面攻略の戦いのひとつで、この敗北を期に上杉の傘下に入っていた関東の大名が北条に寝返り(原氏を北条が支援していた)、関東平定が困難になったといわれます。

[3836]
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答え:○
幼少期に患った天然痘が原因で隻眼になったとか。
レッツパーリィーの人:http://news.dengeki.com/elem/000/000/108/108968/img.html

[3837]
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答え:CBA(立花城の戦い→小谷攻め→小田原征伐)
小田原征伐は1590年に秀吉が北条氏政を倒したもの。秀吉の全国統一のなかでもかなり後のほうです。
小谷城の戦いは1573年におこった信長と浅井長政の間の戦いで、姉川の戦いで敗北した浅井氏が小谷城(現在の岐阜県長浜市)に籠城したのを追い詰めたものです。この戦いで浅井氏は滅亡しました。
立花城の戦いは1569年の戦いで、大友氏と毛利氏の間のものです。立花城は大友氏の家臣である立花氏がおさめていました。立花城は筑前(現在の福岡県)にある博多を見下ろす重要な拠点です。少々ややこしい戦いで、戦い自体は毛利側の勝利となったのですが、その2年後に大友宗麟の工作によって出雲の尼子氏の残党が進出したことで、毛利側は撤退を余儀なくされます。結局、立花城は大友氏の手に戻り、城主に大友氏の家臣である立花道雪(この時にこの名前が与えられる)が任命されます。

[3838]
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答え:肥前
大村純忠(すみただ)は肥前(現在の長崎県と佐賀県の一部)の領主で、日本最初のキリシタン大名。

[3839]
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答え:2
2つ雁金と呼ばれる家紋です。

[3840]
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答え:服部半蔵
服部半蔵は何代か同名の人物がいて、正成は2代目の服部半蔵。

[3842]
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答え:ぶんろく(文禄)
2度の朝鮮出兵のうち、1592年のが文禄の役。1598年のが慶長の役。

[3843]
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答え:愛
直江兼続は上杉の家老で、米沢藩をおさめました。鎧の名前は、「金小札浅葱糸威二枚胴具足」
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Noae_Kanetugu_Yoroi.jpg

[3844]
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答え:4.(米沢藩)
秀吉の死後、秀吉の五奉行石田三成と懇意であったことから、家康と対立するようになり、家康は1600年景勝討伐を目的として会津攻めを行います。関ヶ原の戦いで三成が敗れると景勝は家康に降伏し、米沢30万石に減封処分とされ、米沢藩の初代藩主となります。

[3846]
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答え:きちょう
帰蝶。斎藤道三の娘で信長の正室。

[3849]
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答え:ろく
真田氏の旗印は銅線が縦×横:2×3で並んだものです。六道の地蔵菩薩にわたしことから、六道銭ともいわれます。

[3850]
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答え:うやまひさかね
宇山久兼。尼子義久は出雲の戦国大名。宇山久兼は代々尼子家に仕えてきましたが、毛利の尼子攻めの折、義久の家臣である大塚与三衛門が「宇山が毛利に寝返ろうとしている」と噂を流したことで、久兼は義久に殺されてしまいます。尼子氏のお家騒動により、尼子軍は総崩れとなり滅亡へとたどることになります。

[3851]
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答え:おだうらくさい
織田有楽斎。有楽斎は茶名で、本当の名前は織田長益。織田信秀の十一男で、信長の弟にあたります。千利休に弟子入りし、茶人として有名です。

[3852]
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答え:なくるみじょう
名胡桃城。現在の群馬県みなかみ町にあった城で、真田氏沼田城の支城。真田昌幸(まさゆき)は武田氏をはじめ多くの大名に使えた大名で、真田幸村の父にあたります。1589年に真田領としてあった名胡桃城が北条氏によって奪取されたしまうことにより、秀吉の惣無事令(大名間の私闘を禁じたもの:1585年)に違反したとして、秀吉に北条討伐の口実を与えてしまうことになります。

[3853]
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答え:1,2(明智光秀、丹羽長秀)
丹羽長秀の苗字は「たんば」ではなく「にわ」と読みます。織田信長の天下統一に貢献した4人の武将を四天王と呼び、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人です。朝倉義景ははじめから信長に敵対し、一乗谷城の戦いにより討たれてしまいます。

[3854]
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答え:九十九髪茄子
つくもなす。もともとは三代将軍足利義満のものでしたが、松永久秀から信長、秀吉、家康らの手にわたりました。
参考:http://www9.nhk.or.jp/anime/hyouge/meihin/archive01.html

[3855]
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答え:安井
安井道頓。道頓堀を作った商人。土木工事のスペシャリストでしたが、大阪夏の陣に巻き込まれて討ち死にしてしまいます。

[3856]
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答え:132(三河物語-大久保彦左衛門、信長公記-太田牛一、天正記-大村由己)
三河物語は1622年に大久保彦左衛門によって書かれたもの。安彦良和の同名の漫画は、三河物語そのものではなく彦左衛門の三河物語の執筆に関するストーリーです。
信長公記は信長の室町幕府上洛から本能寺の変までの公式記録。作者は太田牛一で、信長の秘書官を務めた人物です。
天正記は秀吉の伝記で、1582年から大村由己によって書かれました。後の小瀬甫庵『太閤記』に大きな影響を与えた軍記物語です。

[3857]
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答え:123(安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄)
それぞれ斎藤氏に仕え、後に織田信長の家臣となり美濃三人衆と呼ばれました。

[3858]
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答え:2.(伊達政宗)
こういうすましてカッコつけた句はたぶん伊達政宗だろうなと思ったら正解。他の人の辞世の句は、
 上杉謙信:極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
 斎藤道三:捨ててだに この世のほかはなき物を いづくかつひの すみかなりけむ
 武田信玄:大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
それぞれの人柄がよく現れているといえますね。

[3859]
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答え:1.(大内義隆)
周防国でほぼ確定できるでしょう。周防は現在の山口県中南部。もともと遣明船は室町幕府が行なっていたものですが、室町幕府が衰退するにつれ徐々に有力大名や有力寺社のもとで行われるようになっていきます。ここで登場したおもな大名が堺の細川氏(細川氏自体は四国の大名ですが)、山口・博多の大内氏です。両者は遣明船の権益保証や貿易権をめぐって次第に対立するようになり、明の寧波で現地の役人を巻き込んだ武力衝突が発生。これにより明の対日感情が悪化し、遣明船は一時中断されますが、のちに大内義隆によって復活されます。
大内義隆は家臣・陶晴賢の反乱により1551年に殺害されてしまいます。

[3860]
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答え:釣り野伏せ
茂みの中に伏兵を仕掛け、先鋒隊がわざと負けて伏兵を仕込んだところまで退却し敵をおびき寄せ、敵がよってきたところを伏兵で一網打尽にするという戦法。

[3861]
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答え:×
淀殿は信長の妹であるお市の方と浅井長政の間の娘で、浅井三姉妹の長女。

[3862]
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答え:じゅけいに
寿桂尼。今川家四代にわたり政務を担当。

[3863]
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答え:七難八苦
尼子家の家臣・山中鹿之助が尼子家が没落していく中で、三日月に向かって祈ったもの。山中鹿之助は尼子十勇士の筆頭で、毛利による尼子討伐以降も尼子氏再興につとめた武将です。

[3864]
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答え:ほしいい
干飯。干は「ほす」と読み、飯は長野県飯田市のように「いい」と読みます。炊いたうるち米をそのまま天日で乾燥させたものらしいです。

[3865]
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答え:1.(長宗我部氏)
4番の長宗我部元親が一番有名。長宗我部氏は土佐(現在の高知県)をおさめた戦国大名。長宗我部兼続は元親の祖父、長宗我部盛親は元親の四男、長宗我部国親は元親の父。

[3866]
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答え:×
鉄砲を伝来させたのはポルトガル人。1543年に種子島に。鉄砲を日本に持ち込んだといわれる2人は、フランシスコとキリシタダモッタといわれます。

[3867]
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答え:1.(長良川の戦い)
斎藤家の家督問題で起こった戦い。斎藤道三と嫡男・義龍あいだの戦いで、この戦いで動産は討ち死に。長良川は木曽三川のひとつで、東から数えて2番目の川。岐阜県唯一の新幹線駅のある羽島市は、この長良川と木曽川に囲まれ、これらは下流で合流することから、三角地帯のような場所にあります。

[3868]
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答え:いせしんくろう
伊勢新九郎。北条早雲の最初の元服の名前。もともと備中の伊勢氏のもとに生まれたからとか。

[3869]
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答え:正勝
蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)。秀吉の重臣で、後に阿波(現在の徳島県)の国を収める大名となります。阿波おどりの起源ともいわれる城は、徳島市の中心部にある徳島城築城のときのもの。

[3870]
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答え:23(松永久秀、北条早雲)
戦国三梟雄:北条早雲、斎藤道三、松永久秀。松永久秀は大和の大名で、はじめは三好長慶のもとに仕えましたが、永禄の変で三好三人衆とともに13代将軍・足利義輝を討ち下克上を果たします。斎藤義龍は父の道三とお家騒動を起こして後継の座を獲得したので、厳密には下克上ではありません。

[3871]
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答え:杉谷善住坊
すぎたにぜんじゅぼう。鉄砲の名手でしたが、激怒した信長の命によって後に発見され、岐阜城で生き埋めにされ鋸挽きの刑に処せられます。

[3872]
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答え:四季山水図巻
全長10メートル以上の水墨画で、雪舟晩年の作品。

[3873]
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答え:大谷吉継
おおたによしつぐ。越前国敦賀城主。豊臣氏に仕え、石田三成の盟友として知られます。

[3875]
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答え:1.(松平広忠)
家康の父は松平広忠(ひろただ)。松平元康は家康のこと。松平利長は広忠の大叔父。松平容保(かたもり)は、時代が違って幕末の京都守護職。会津藩最後の藩主。

[3876]
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答え:しが(志賀)
普通は姉川の戦いの方を聞いてきますが、だいぶ問題がマニアックに。姉川の戦い以降、浅井・朝倉が比叡山に籠城した戦いです。この戦いで比叡山への信長の幾度にも渡る通牒を無視したことから、翌年信長の手によって延暦寺が焼き討ちされてしまいます。

[3877]
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答え:D.(前田慶次郎)
花の慶次の人。前田利家の甥に当たります。「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」は浪人時代の名前(自称)。『一夢庵風流記』は隆慶一郎による歴史小説で、原哲夫による漫画『花の慶次-雲のかなたに-』の原作となったものです。

[3878]
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答え:弘治
弘治(こうじ)の内乱。畠山義綱は能登(現在の石川県能登半島部分)の戦国大名。畠山七人衆は畠山氏の重臣たちのことで、7人の合議制によって政策運営がなされていました。弘治の内乱以降この体勢が徐々に崩壊していくことになります。
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