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戦国時代検定(12/04)

12/3に回収してSとれなくて、4日に回収したもの。
それでもSとれなかった(´・ω・`)

[3958]
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答え:わきざかやすはる
脇坂安治。秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の最年長武将。

[3960]
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答え:徳川家康
徳川家康の征夷大将軍任命と、徳川慶喜の大政奉還がおこなわれたところ。

[3961]
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答え:きたのまんどころ
政所と書いてまんどころと読みますが、北との間に「の」が入ります。北政所は摂政関白の正室に与えられる称号です。寝殿造りにおいて「北対」とよばれる私室があり、そこの一切の決裁を行なっていたことから正室は北の方とも呼ばれますが、館主が三位以上になると政所を持つことから、北政所と呼ばれるそうです。

[3962]
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答え:さたけ(佐竹)
佐竹氏は常陸の国(現在の茨城県の大部分)の大名。「鬼義重」の由来は、北条氏との戦いで敵を一瞬で7人斬り伏せたことから。

[3964]
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答え:3.(夏)
1614年の大阪冬の陣→1615年の夏の陣。この戦いで豊臣氏が滅亡。

[3965]
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答え:アンジロー
弥次郎ともいわれます。現在の鹿児島県の出身の日本人で、ザビエルが日本を去ったあともキリスト教の布教につとめたといわれます。鹿児島のザビエル公園には、ザビエルとともに銅像があります。

[3966]
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答え:D.(宇喜多秀家)
宇喜多秀家は備前(現在の岡山県東南部)の大名・宇喜多直家の次男として生まれ、織田家→豊臣家と仕えました。関ヶ原の戦いでは西軍として参加し、西軍の敗北以降は島津のもとへ落ち延びましたが、のちに家康のもとに引き渡され、八丈島への流刑になります。関ヶ原の戦いの武将では最も遅くに没した人物です。
小早川氏も山陽地方に馴染みの深い人物ですが、小早川隆景は関ヶ原の戦いの前に没しています。関ヶ原の戦いに西軍として参加し、裏切り、この戦いの趨勢に大きな影響を与えたのは、息子の小早川秀秋です。秀秋は関ヶ原の功績を讃えられ、のちの備前岡山藩主となりました。

[3967]
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答え:神指
会津若松市にある城は鶴ヶ城(会津若松城)しか思いつかなくて選択肢がなくてしょぼーんとした一問。答えは、神指(こうざし)城。鶴ヶ城は1593年に蒲生氏郷が築城したもの。鶴ヶ城が会津若松市の中心部にあるのに対し、神指城の跡は南西に少し離れたところにあります。1600年に12万人を動員して築城が開始されますが、天守閣着工の前に家康の会津征伐がはじまり工事は中断。関ヶ原の戦い以降は完成を待たずして神指城は破棄されてしまいます。
直江兼続は上杉景勝の家臣で米沢を収めていました。

[3968]
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答え:○
濃姫は斎藤道三の娘で信長の正室。濃姫との間に子供はおらず、信長の嫡子は側室との間であったといわれます。

[3969]
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答え:摺上原
摺上原(すりあげはら)の戦い。現在の福島県猪苗代町付近での戦い。対するは会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍。この戦い自体は伊達政宗の勝利で終わりますが、当時蘆名氏は秀吉傘下の大名であったことから、のちに秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、翌年奥州全土への領土措置である「奥州仕置」が発令されます。一時は150万石近い領土を保有していた政宗ですが、これにより現在の福島県にあたる領土が没収、領土は半減してしまいます。

[3971]
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答え:家政
蜂須賀家政(はちすか いえまさ)。秀吉の重臣である蜂須賀正勝の子で初代徳島藩主。父の正勝は徳島城の完成を待たずして亡くなってしまいます。

[3973]
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答え:秀長
豊臣秀長は秀吉の弟。甥である秀次に対しては秀吉は冷たかった一方で(殺生関白)、秀長は豊臣政権の中核としてもてなされました。のちに大和・紀伊・和泉・河内110万石という、京都に近い重要な場所を統べる大大名となり、大和大納言とも呼ばれます。

[3974]
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答え:2.(今川義元)
今川義元は僧侶の出身。長宗我部元親は長宗我部家、つまり武家の出身で四国統一を果たしました。豊臣秀吉は農民の出身。

[3976]
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答え:A(今川義元の最期)
桶狭間ですぐにわかるでしょう。簗田政綱(やなだまさつな)、服部小平太、毛利新助ともに桶狭間の戦いにおける織田の武将で、それぞれ今川義元の場所を知らせた、今川義元に最初に斬りつけた、今川義元の首を取ったの武功があります。

[3977]
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答え:古天明平蜘蛛
こてんぴょうひらぐも。松永久秀が所有した茶釜で、九十九髪茄子については織田信長に進呈したが、これについては断固拒否したといわれます。後に久秀が信長に侵攻され自害するときに、この茶釜に爆薬をいれて茶釜ごと消滅したともいわれます。

[3978]
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答え:○
森蘭丸は信長に溺愛された若い武士で、本能寺の変では信長と共に最後まで戦い抜き討ち死にしました。このとき森蘭丸18歳、信長49歳。

[3979]
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答え:天と地と
1969年に放送された大河ドラマ。大河ドラマ初のカラー放送。

[3980]
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答え:よしおき(義意)
相模三浦氏最後の当主。三浦氏は室町幕府設立以降、武蔵・相模の地頭となりましたが、北条氏の台頭により1516年に滅亡。新井城は現在の神奈川県三浦市にある、城ヶ島に近い三浦半島の先端にあったお城。最後の当主・義意は、父・義同の切腹を見届けたあと、敵陣に突撃して討ち取られたとか。

[3981]
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答え:CAB(塵芥集→結城家法度→朝倉孝景条々)
塵芥集が171条で最多(伊達氏)。結城家法度は下総の結城家が制定した分国法で、すべてで107条。朝倉孝景条々は越前国(現在の石川県能登半島を除く部分)の守護朝倉孝景が制定したもので、全17条。

[3983]
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答え:123(石田三成、小西行長、長宗我部盛親)
石田三成は確定。長宗我部盛親も支配地域を考えるとおそらく西軍(本当は東軍に与しようとしていたそうです)。小西行長は迷いますが、秀吉の重臣であり、文禄・慶長の役で活躍したことを踏まえると、秀吉に近い人物であり西軍が妥当。

[3985]
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答え:くちばみちよし
口羽通良。毛利四人衆のほかには小早川隆景など。

[3987]
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答え:C.(佐々成政)
氏家卜全、稲葉一鉄は美濃の三人衆なので×。府中三人衆の府中とは東京の府中ではなく、越前(現在の石川県能登半島以外の地域)の国の地名。府中三人衆は越前、加賀の一向一揆鎮圧のために出陣した柴田勝家の部下で、前田利家・佐々成政・不破光治がこれにあたります【問題はこれで確定】。Dの堀尾吉晴は信長、秀吉と仕え、豊臣政権では三中老ににんぜられます。
黒母衣衆は信長の近衛兵の一部隊(他に赤母衣衆)。佐々成政はこの筆頭として活躍します。最期は豊臣時代、太閤検地に反対する国人一揆を抑えきれなかったため、責任を取り切腹。

[3988]
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答え:人取
人取橋は現在の福島県本宮市で、郡山と二本松のちょうど中間あたりにあります。伊達政宗の戦いの中では比較的前期の戦いです。

[3989]
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答え:ABCD(霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫家郷の遠征を憶う)
七尾城は現在の石川県七尾市にあったお城。七尾城の戦いは、上杉謙信と能登畠山氏との間の1577年の戦いで、この戦いで上杉は勝利、畠山氏は滅亡します。なおこの漢詩は土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲による「荒城の月」の2番の元ネタとなっていて、
  秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
  植うる剣(つるぎ)に照り沿ひし 昔の光今いづこ
となっています。こちらの歌のほうが有名なので、秋陣営と雁、そして漢詩の特徴から遠征において感慨深く浸っているDが末尾となることを考えると、自然と順番が確定できます。

[4001]
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答え:B.(彦根城)
井伊直弼が有名な井伊氏は幕府の重臣で彦根藩。彦根城は国宝で、見分け方としては横から見て屋根の「へ」の形が上1下3になっているもの。

[4003]
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答え:1.(前田玄以)
いずれも秀吉に馴染みが深い人物ですが、五奉行はそれぞれ司法、行政、土木、財政、宗教担当で位置づけです。五奉行にいたからといって有力大名かというとそうでもなく、有力な傘下の大名はどちらかというと五大老に分類されます(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家などがこちら)。五奉行には浅野長政、石田三成、増田(ました)長盛、長束(ながつか)正家、前田玄以(げんい)、が任ぜられます。筆頭は浅野長政。

[4005]
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答え:132(太田道灌-鶴千代、織田信忠-奇妙丸、三好長慶-千熊丸)
太田道灌の幼名は鶴千代、後に江戸城を築城した人。幼少から大変賢かったそうです。
織田信忠は信長の嫡男で、本能寺の変のあとに明智軍に同様に包囲され自刃。幼名は奇妙丸。織田信長の息子の幼名は変な名前が多いです。
三好長慶は近畿阿波の大名で、幼名は千熊丸。幼い時から割りとがっちりとした体型だったとか。

[4006]
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大意;この家紋の戦国大名は何家?
答え:2.(島津家)
大きな十字が特徴。キリスト教伝来の前からこの家紋を用いていました(島津はキリシタン大名でもないので、十字架由来でこの家紋を用いたというのは説得力に欠けるでしょう)

[4007]
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答え:快川紹喜
かいせんじょうき。海鮮丼みたいな名前でおいしそうなかんじですが字は違います。紹は紹介や紹興酒などで「しょう」と読みますが、これが濁ったものでしょう。武田氏滅亡の混乱に乗じて六角氏を寺(恵林寺:現在の山梨県にある)にかくまっていたため、織田信忠によって寺ごと焼き討ちされてしまいました。心頭滅却すれば火もまた涼しとは、そのときの快川の辞世の句であったといわれています。

[4008]
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答え:松永久秀
松永久秀は三好家の家臣でしたが、三好氏では三好三人衆や松永が実質的な権力をおもっていたため、主君がほぼ傀儡状態であったといいます。後に織田信長の家臣となります。

[4009]
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[4009]
答え:ねづじんぱち
根津甚八。真田十勇士の中でフルネームがひらがな6文字以下の武将はこの人だけ。真田幸村の家臣で水軍の扱いに長けていたといわれます。

[4010]
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答え:仙石秀久
せんごくひでひさ。小諸だから場所的に真田かなとおもったら違った一問。宮下英樹の漫画『センゴク』(ヤングマガジン)の主人公。秀吉の武将でしたが、島津征伐の失敗で叱責され領地没収の上追放されますが、小田原征伐で「無」の旗を掲げて家康軍に加わり、のちに秀吉に認められ小諸城主に返り咲きます。

[4011]
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答え:2.(信秀)
残る選択肢はすべて信長の兄弟。

[4012]
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答え:ノビスパン
漢字を音読みしていけばなんとなくわかるでしょう。ノビスパンは、ノバーイスパニアの略でスペイン植民地時代のメキシコをさします。

[4013]
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答え:ひよし
秀吉の幼名は日吉丸。家康は竹千代。信長は吉法師(きっぽうし)。

[4014]
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答え:織田有楽斎

[4015]
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答え:○
龍造寺隆信は肥前(現在の佐賀県、長崎県)の大名。沖田畷(おきたなわて)の戦いは、1584年に有馬・島津連合軍が龍造寺軍を破ったもの。兵力にして龍造寺軍は、有馬・島津連合軍の数倍はあったといわれますが、島津の釣り野伏せの戦法の前に包囲され、四天王といわれた家臣を全員失ってしまいます。これにより、龍造寺氏は急速に衰退し、島津氏が九州での版図を広げていくことになります。

[4016]
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答え:○
×な問題は毛利元就。毛利元就は毛利輝元の祖父。

[4017]
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答え:A.(竹)
Bは松。上杉謙信の家紋は「竹に飛び雀」と呼ばれる絵柄です。

[4018]
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答え:3,(兼明親王)
かねあきらしんのう。兼明親王は平安時代の貴族で、七重八重~の和歌は後拾遺和歌集に収録されているもの。これは落語の『道灌』という有名な演目で引用されている一句で、道灌が蓑を借りに農家に入ったところ、農家の娘に山吹の花を渡された。蓑がほしいのに花を渡すとはなにごとぞと道灌は怒ったが、これは後拾遺和歌集の和歌を引用したものであり、蓑と山吹の実、さらには貧乏で蓑すら持ち合わせていないということを掛けて述べたものであるということに、後に家臣から気付かされ、以降道灌は歌道に励んだ―という内容です。

[4019]
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答え:七尾
畠山氏がよくわからなくても、地理的に考えて七尾しか当てはまりません。七尾城の戦いは畠山氏と上杉謙信の戦い。

[4020]
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答え:朝倉宗滴
あさくらそうてき。越前朝倉氏の重鎮。宗滴が残した家訓や戦陣訓をまとめたものが『朝倉宗滴話記』で、「武者は犬どもいえ~」はこの中の言葉。武士は何と言われようが勝つことが重要だよという意味でしょうか。

[4021]
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答え:B.(九鬼嘉隆)
説明の通りで、信長秀吉のお抱え水軍として活躍。海賊というイメージだけだと島津を選びやすいですが…。

[4022]
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答え:直江兼続
兼続のつぐは次ではなくて「続」であるのに注意。直江兼続は上杉氏の家老で、大河ドラマ『天地人』では主人公。

[4023]
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答え:A.(稲葉一鉄)
美濃三人衆なのでAの稲葉一鉄かDの安藤守就。このうち僧侶から還俗したのは稲葉一鉄。稲葉一鉄は幼い時に僧侶になっていましたが、父と兄が戦死したことから家督を継いぎました。

[4024]
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答え:多聞
たもんやぐら。文字通りの意味で、現存するのは大阪城のものです。大手門を入ってすぐの、内部の門の上に横たわる長屋のような感じの作りらしいです。

[4025]
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答え:○
三方ヶ原(みかたがはら)の戦い。現在の静岡県浜松市。1573年に武田軍が徳川軍を破った戦いです。この教訓はのちの長篠の戦いで生かされることになります。

[4026]
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答え:B.(朝倉氏)
景がつくので上杉氏と紛らわしいですが、朝倉氏です(上杉氏だったら謙信とかもっとわかりやすいヒントがくるはず)。朝倉家景は第6代、朝倉貞景は第9代、朝倉教景は第5代、朝倉義景は第11代で最後の当主。

[4027]
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答え:三好氏
消去法で考えると三好しか残りません。主な守護地は六角氏は近江、佐竹氏は常陸、龍造寺氏は肥前。徳島県には三好市があります(三好長慶の出身氏は現在の徳島県三好市ですが、直接関係あるのでしょうか)。

[4028]
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答え:ちょうきょう
長享。1487年から1488年までたった3年しかなかった元号です。

[4029]
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答え:×
小牧・長久手の戦いは秀吉が家康軍に敗れた戦い。この責任を取ってのちに出家したのは滝川一益。滝川益重(ますしげ)は一益の家臣で、いとこではないかと言われています。

[4030]
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答え:1582
覚え方をググったら、いちごパンツの明智光秀というのがw爆笑したんですぐ覚えられましたけどww

[4031]
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答え:231(黒田長政、最上義光、田中吉政)
黒田長政はもともとは秀吉の家臣で、正室に蜂須賀正勝の娘をもらうなど比較的秀吉に近い人物でしたが、朝鮮の役以降小西行長や石田三成と対立したことがきっかけで、関ヶ原の戦いでは東軍として参加します。関ヶ原では小早川らの寝返りの交渉もつとめており、この功績が高く評価され、後に筑前福岡藩初代藩主となります。
最上義光は出羽の戦国大名で、伊達政宗の叔父。
田中吉政は近江の出身の武将で、豊臣秀次に仕えました。秀吉が秀次以下家臣を大量に粛清した一方で、吉政ら宿老にはお咎めなしだったそうです。この後関ヶ原では東軍に属し、戦後家康から筑後(現在の長崎県、佐賀県、熊本県の中間)を与えられ拠点を柳川城におきます。

[4089]
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答え:4.(竹中直人)
『秀吉』は1996年放映の大河ドラマ。原作は堺屋太一、主演は竹中直人。秀吉を題材にした大河ドラマはその約30年ほど前、1965年の『太閤記』があり、こちらの主演は緒形拳。

[4090]
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答え:コレジオ
イエズス会の大学と聞いて上智大学しか思い浮かばなかった(´・ω・`) イエズス会の神学校は世界に多くあるそうですが、聖職者の養成を目的とされたものはコレジオと言います。特に戦国時代で創設されたものは、豊後の国に(現在の大分県大分市)キリシタン大名大友宗麟の庇護のもとで建設されました。
英語のコレッジに近い名前です。

[4091]
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答え:3.(秀吉)
この検定でさんざん出てきた賤ヶ岳の七本槍のですが、これは秀吉の家臣です。織田信長亡き後の後継者問題で、柴田勝家と秀吉の間でバトルしたのが賤ヶ岳の戦い。

[4092]
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答え:C.(平手政秀)
ひらてまさひで。平手政秀は織田信秀時代からの家臣で、信長の教育係を務めていました。信長の奇行を「うつけもの」と諌めていました。現在の愛知県名古屋市には、信長が政秀を弔うための寺として政秀寺(せいしゅうじ)を建立します。

[4093]
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答え:B.(柳生宗厳)
かなり難しめの問題ですが、第4選択肢でわかってしまうでしょう。柳生新陰流からは江戸時代の天才剣士・柳生十兵衛が生まれます。

[4094]
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答え:231(伊達政宗-片倉景綱、武田信玄-真田幸隆、龍造寺隆信-鍋島直茂)
とりあえず真田は武田の家臣だけど残りは…で詰まった問題。伊達政宗の軍師は2の片倉景綱で、片倉小十郎とも呼ばれます。知将として知られ、その才は奥州仕置の際、秀吉が家臣として迎えようとしたほどだとか。
鍋島直茂は龍造寺の軍師。大変タヌキおやじなイメージが強いとか。
真田幸隆は文字通り武田氏の軍師で、真田幸村の祖父にあたります。

[4095]
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答え:1.(花の慶次)
花の慶次は傾奇者(かぶきもの)として知られる前田慶次郎を描いたもの。はいからさんが通るは大正時代。あさきゆめみしは源氏物語を漫画化したもので、舞台は平安時代。

[4096]
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答え:213(毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛)
五人衆は関ヶ原の戦い以降、徳川にお家取りつぶしなどにあい徳川に不満を持っているものたちを、豊臣が寄せ集めで集結させたもの。真田幸村や長宗我部盛親など。他には、毛利勝永(豊臣秀頼の介錯をしたとした人)、備前宰相宇喜多秀家の軍師・明石全登(あかしたかのり)、黒田氏の家臣であった後藤又兵衛がいました。

[4097]
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答え:一地一作人の原則
太閤検地以前の土地制度が長く続いたこともあり、権利関係が複雑化したのを整理する目的で行ったそうです。一つの土地に一人の耕作人を登録することで、農民を直接領主の支配のもとにおきます。

[4098]
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答え:○
秀吉の軍師というと竹中半兵衛と黒田官兵衛の2人がいます。後の海援隊の曲『二流の人』も同様に黒田官兵衛について歌ったものです。
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戦国時代検定(12/03)

[3780]
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答え:B
右が伊達政宗。兜の飾りがV字になってるのが特徴。これは仙台の青葉山公園にある、小室達(とおる)作の銅像。

[3781]
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答え:D.(伊達氏)
第4選択肢でほぼ確定ですが、伊達吉村は江戸時代の大名で仙台藩第5代藩主。伊達宗綱は政宗の子供。伊達氏宗は室町時代の武将で、足利義満のいとこ。

[3782]
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答え:服部半蔵
忍者のイメージが強いですが、服部家の武将だそうです。忍者ハットリくんなど。

[3783]
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答え:李舜臣
りしゅんしん。文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いて日本軍と戦いました。

[3884]
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答え:○
江戸城築城で有名。日暮里駅前に銅像があります。

[3785]
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答え:○
織田信長、豊臣秀吉は尾張の国、徳川家康は三河の国出身。どちらも現在の愛知県。

[3786]
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答え:4.(京都府)
現在の京都市内、河原町御池付近に存在。

[3787]
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答え:次第
甲州法度次第(こうしゅうはっと の しだい)。武田信玄が1547年に定めた分国法で、全57条からなります。

[3788]
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答え:B→C→A(桶狭間→姉川→天目山)
天目山の戦いは、1582年におこった織田と武田の戦いで、現在の山梨県で行われました。甲斐武田氏に終焉をもたらした戦いで、この戦いで武田側は織田軍に大敗北、当主勝頼は自刃しました。勝頼の像は甲斐大和駅前にあるそうです。
桶狭間の戦いは、1560年におこった織田と今川の戦いで、現在の愛知県豊明市で行われました。織田軍に対し、今川軍は兵力でその10倍以上だったにもかかわらず、今川側が敗北。今川義元は討ち死にしました。
姉川の戦いは、1570年の織田と浅井・朝倉の間の戦いで、合戦所は現在の山梨県長浜市です。同年に織田が浅井と結んだ朝倉への不可侵条約を破棄して、朝倉討伐をはじめたことが発端だとか。

[3789]
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答え:○
フロイス日本史。ルイス・フロイスはポルトガルのリスボン生まれのイエズス会の宣教師。

[3790]
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答え:3,1,2(氏家卜全、安藤守就、稲葉一鉄)
美濃三人衆はもともと美濃の斉藤の家老でしたが、三代目の斎藤龍興のときに斎藤氏を離反、織田氏の軍門に下ります。それぞれ、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤守就、稲葉一鉄。

[3791]
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答え:171
じんかいしゅう。陸奥国の戦国大名、伊達氏が制定した分国法。全てで171条からなり、分国法のなかでは最大の規模。ちなみに、電話番号の171は災害伝言ダイヤル。

[3794]
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答え:○
古くは井口(いのくち)と呼ばれた地名を、1575年に「井口を改めて岐阜とする」といったことが理由とか。

[3795]
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答え:細川勝元
分岐で、西軍の大将=山名宗全。応仁の乱をテーマにした1994年放映の大河ドラマは花の乱。

[3796]
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答え:2.(二公一民)
収穫量の2/3を年貢として納めなさいよという意味。五公五民は徳川吉宗が1716年から行った享保の改革で定めた年貢率。

[3797]
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答え:4.(豊臣秀次)
豊臣秀次は秀吉の甥に当たる人物で、はじめ三好康長に養子入りしていたことから、三好信吉と名乗っていました。
八幡山城は、現在の滋賀県近江八幡市にある城跡で、1585年に秀次が築城し、居城としていました。
小牧・長久手の戦いとは、1584年におこった、豊臣と徳川家康・織田信雄連合軍の戦いですが、このとき秀次は奇襲隊の大将として参加します。しかし、徳川軍の別の奇襲隊にこれをつぶされ、大敗北を喫してしまいます。
「殺生関白」とは、摂政関白からもじったものですが、秀次の横暴な様子をあらわした噂で、鉄砲の稽古と称して農民を撃ち殺す、側室の妊娠を聞くと腹を切り裂いて胎児の顔を確認するなどといったものです。しかし、これらは秀吉が秀次をつぶすためのものであるという可能性もあり、真偽は定かではありません。事実、1595年に秀次は秀吉に対する謀反の嫌疑により、家臣・一族郎党ともに粛清されてしまいます。八幡山城は築城後たったの10年で廃城となってしまいます。

[3798]
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答え:太閤
太閤検地などから。太閤のたいは「太い」のほうであるので注意。太閤とはもともと摂政・関白を子弟に譲った人に与えられる位で、特に戦国時代では豊臣秀吉のことをさします。

[3799]
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答え:1.(明)
室町幕府が明との間に行なっていた貿易を日明貿易といいます。海賊対策のために勘合符を用いていました。

[3800]
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答え:A.(虎)
加藤清正は秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。文禄・慶長の役で虎を退治し、秀吉に献上したといわれています。

[3801]
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答え:3.(浅井長政)
お市の方は信長の妹。1567年に織田・浅井の同盟として、浅井長政のもとに嫁ぎます。姉川の戦い以降は3人の娘と共に織田の元に引き取られ、信長の死後、秀吉の仲介により柴田勝家の正妻となります。

[3802]
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答え:2.(小田原北条氏)
北条幻庵は北条早雲の子供の一人で、戦国大名最長老としても知られます(97歳)。
北条綱成(つなしげ)は北条氏の家臣で、地黄八幡の猛将として知られます。
北条氏綱は北条氏康の父にあたる人物で、後北条氏2代目。
北条早雲はおなじみ後北条氏第1代の大名で、戦国大名の草分け的な存在。

[3804]
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答え:からすじょう
”うじょう”とも読みたくなりますが、こちらは岡山城の別名。

[3805]
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答え:安国寺恵瓊
あんこくじ えけい。伊予は現在の愛媛県。

[3806]
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答え:てんのうざん
山崎の戦いは、本能寺の変で信長が倒れた後、秀吉が明智光秀を討伐したもの。天王山はスポーツや政治などでも比喩として用いられます。実際の天王山は京都府の長岡京近くにあり、麓を流れる川はここで桂川・宇治川・木津川が合流し淀川となります。

[3807]
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答え:ひらのながやす
平野長泰。秀吉に使えたあとは、関ヶ原の東軍→二代将軍秀忠の旗本となりました。

[3808]
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答え:×
『独眼竜政宗』は1987年に放映された大河ドラマで、歴代平均視聴率3位。主演は渡辺謙。中井貴一は1988年放映の大河ドラマ『武田信玄』の主演で、こちらは平均視聴率歴代2位。

[3809]
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答え:蓮如
一向一揆とは浄土真宗本願寺派(一向宗)の信徒らがおこした一揆。蓮如自らが一揆を煽動したというよりも、応仁の乱以降の経済不安定により、不満をもった民衆が反抗するために蓮如を担ぎ上げたように見えますがいかがでしょうか。

[3810]
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答え:稲葉山城
いなばやまじょう。現在の岐阜県岐阜市にあり、もともとは斎藤氏の居城。桶狭間以降の信長の勢力拡大にともない、1567年に織田と斎藤の間で稲葉山城の戦いがおきました。この結果は織田の勝利で、斎藤氏は滅亡、稲葉山城を岐阜城(これが現在の岐阜の地名のもと)と改名した上で信長の居城となりました。信長が天下布武の朱印を用い、本格的に全国統一をはじめようとしたのもこの戦い以降です。

[3811]
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答え:かぶらや
矢の先に筒のような武具(鏑)を取り付け、弓で引くことでひときわ大きい音を放ちながら飛びます。

[3813]
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答え:えごうしゅう
堺のものが有名で、有力商人で構成されていたそうです。

[3815]
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答え:ACB(筒井順慶→豊臣秀長→石田三成)
島左近は通称で本名は島清興。大和国(現在の奈良県)生まれ。はじめは河内、紀伊(現在の大阪、和歌山)を収める畠山氏のもとに仕えましたが、畠山氏の没落以降、地元の筒井氏のもとに仕えました。そののち、秀吉の家臣である豊臣秀長のもとに仕え、最終的には石田三成の元に仕えます。1600年に関ヶ原の戦いで討ち死にしました。島左近をモチーフにした作品に、原哲夫原作の漫画『SAKON(左近) -戦国風雲録-』(週刊少年ジャンプ)があります。

[3816]
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答え:仮名目録
1526年に今川氏親が制定した仮名目録と、1553年にその子義元が制定した「仮名目録追加21条」を加えたもので、全54条からなります。後の武田氏の分国法「甲州法度次第」に影響を与えたといわれます。

[3817]
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答え:(佐賀県の部分)
名護屋城は現在の佐賀県唐津市に存在。秀吉が朝鮮出兵を行う際に前線基地として築城されました。

[3818]
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答え:佐久間盛政
賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変以降、旧織田の家臣である柴田勝家と豊臣秀吉の間の戦いで、織田の家督問題と秀吉の台頭の中で、かつての織田の家臣の中で勢力がわれたことが背景にあります。
佐久間盛政はかつての織田の家臣のひとりでしたが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家側につきました。賤ヶ岳は現在の長浜市にあり、琵琶湖の北東にある小さな湖・余呉湖の沿岸が舞台となっています。賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が岐阜へいったことを期に、盛政は東の大岩山にある砦に奇襲をかけようとしました。しかし、これが結果的に勝家側の兵力を分散させてしまうことになります。揖斐川の氾濫で大垣にとどまっていた秀吉がこの襲撃を聞くと、強行軍により大軍を近江に帰還させます。結局勝家の軍は各個撃破されて戦いに敗北してしまいます。佐久間盛政はこの戦いでは生き残りましたが、後に秀吉のもとに引き出され、京市中を引き回しの上処刑されました。

[3819]
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答え:搦手
搦手門(からめてもん)。城の表門は大手門といいます。大手門が立派であるのに対し、裏門である搦手門は比較的小さいものが多いです。

[3820]
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答え:伏見
京都にあるお城で二条城か伏見城か迷いましたが、秀吉にとって馴染みが深いのは伏見城のほう。二条城は徳川家康によって築城されました。

[3821]
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答え:×
毛利輝元は豊臣政権五大老のひとりで、関ヶ原の戦いの西軍の総大将。父は毛利隆元で、毛利元就は隆元の父、すなわち輝元にとっては祖父にあたります。「三本の矢」は毛利元就が、息子の隆元・元春・隆景に対して一族の結束を説いたものです。

[3822]
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答え:おおい(大井)
大井の方または大井夫人。大河ドラマの『武田信玄』ではナレーション役もつとめました。

[3823]
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答え:ABDC(順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元)
意味はこちらを参考:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116235096

漢詩なので起承転結になるように並び替えればOKです。第1句では順序の話をしています。そして第2句では人の守るべき道(大道)とはなんであろうかという話をしており、これは第1句の順序の話を引き継ぎ、より具体的な形に膨らませた形になっています<承>。第3句では55年の人生、これは明智光秀自身について言ったものですが、前の句とはがらりと内容がかわります<転>。最後に、第4句では第3句で述べた夢を覚めるという形で引き継ぎ、第1,2句で述べた大道の話題を、人生という夢が覚めればその答えに達するであろう、というように帰結させています<結>。
間違いやすいのが第1句と第2句の配置だと思います。先に大道という具体的な話題を投げかけずに、順序という漠然とした形でふることで、第2句での大道の順序というものをより強調する形になっているのではないでしょうか。

[3824]
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答え:A.(古田織部)
ふるたおりべ。織部は茶名で、名前は古田重然。美濃国出身で、織部焼きの創始者。千利休に弟子入りし、のちの利休七哲のひとりに挙げられます。山田芳裕作の漫画『へうげもの』(モーニング連載)はこの古田織部を主人公としたものです。
(こんな問題でるんならへうげもののアニメちゃんと見ておけばよかったよパパン…)

[3825]
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答え:123(お江与-徳川秀忠、茶々-豊臣秀吉、初-京極高次)
戦国時代の裏の3人ともいわれるお市の方の娘。3人とも浅井長政との間に生まれました。長女の茶々は豊臣秀吉の側室とり、淀殿と呼ばれます(こちらの名前のほうが有名かも)。次女の初は、近江の大名・京極高次の正妻となり、浅井の血筋が引き継がれることになりました。お江与は江(ごう)と呼ばれることも多いですが、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室となります。2011年の大河ドラマはこの江を題材としたものです。

[3826]
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答え:本多作左衛門重次
普通は本多重次と言いますが、なぜこの問題だけ通称もいれてるんだろうw並べ替えるときはひたすらわかるづらいので、本多と重次を前後に作って、左衛門はひとかたまりにできるから、問題分のヒントの鬼作左から作左衛門を作って、本多と重次の間に挿し込むとかそんなめんどくさいことを。
本多作左衛門重次(本多重次)は、徳川家康の三河時代からの家臣で三河三奉行の一人としてあげられます。豪快な性格の持ち主で、高札に「まもらねば、さくざがしかる」と書いたら、たちまち民衆が従うようになったという逸話があるとか。

[3827]
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答え:12(立花道雪、角隈石宗)
大友宗麟は豊後(現在の大分県)のキリシタン大名。この選択肢のなかでは立花道雪、角隈石宗が大友氏の家臣で、3の松田憲秀は後北条氏の家臣。

[3828]
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答え:A.(柴田勝家)
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れたほう。長光寺城での瓶割りは、信長の朝倉攻めの際に柴田軍が籠城戦で水を断たれた際に、水の入った瓶を割り水の豊富さを示すことで、間者の目を欺き兵士の士気を向上させる狙いがあったとか。

[3830]
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答え:豊臣秀頼
豊臣秀頼は秀吉と淀殿の間の嫡子で、秀吉の跡取り。1603年に江戸幕府がはじまると同時に家康の命により、7歳の千姫は11歳の秀頼と政略結婚させられることになります。これはいわば幕府に対して反逆行為にでないよう、お目付け役に近いようなものではないでしょうか。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、千姫は家康の命により救出され、翌年の1616年に桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚します。

[3831]
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答え:たけちよ
豊臣秀吉の幼名は日吉丸ですが~からの分岐。徳川家康の幼名は竹千代で、三河の松平氏のもとに生まれます。

[3832]
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答え:くき(九鬼)
九鬼嘉隆(くきよしたか)。志摩の出身。鉄甲船は織田信長が毛利討伐の際に、九鬼嘉隆に命じて作らせたもの。織田と豊臣のお抱え水軍として、文禄の役にも参加しました。

[3833]
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答え:1(三河)
尾張の一部、三河、遠江、駿河(現在の愛知県東部と静岡県中西部)。東に北条氏がいるので武蔵までは勢力を伸ばせません。

[3834]
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答え:1.(吉乃)
織田信長の正室は斎藤道三の娘の濃姫ですが、濃姫と信長の間に嫡子はいないという説が有力だそうです。長男の信忠、次男の信雄(のぶかつ)を生んだとされるのは側室の生駒吉乃(いこまきつの)で、馬借の娘だとか。

[3835]
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答え:臼井
現在の千葉県佐倉市にあった城。上杉謙信の関東方面攻略の戦いのひとつで、この敗北を期に上杉の傘下に入っていた関東の大名が北条に寝返り(原氏を北条が支援していた)、関東平定が困難になったといわれます。

[3836]
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答え:○
幼少期に患った天然痘が原因で隻眼になったとか。
レッツパーリィーの人:http://news.dengeki.com/elem/000/000/108/108968/img.html

[3837]
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答え:CBA(立花城の戦い→小谷攻め→小田原征伐)
小田原征伐は1590年に秀吉が北条氏政を倒したもの。秀吉の全国統一のなかでもかなり後のほうです。
小谷城の戦いは1573年におこった信長と浅井長政の間の戦いで、姉川の戦いで敗北した浅井氏が小谷城(現在の岐阜県長浜市)に籠城したのを追い詰めたものです。この戦いで浅井氏は滅亡しました。
立花城の戦いは1569年の戦いで、大友氏と毛利氏の間のものです。立花城は大友氏の家臣である立花氏がおさめていました。立花城は筑前(現在の福岡県)にある博多を見下ろす重要な拠点です。少々ややこしい戦いで、戦い自体は毛利側の勝利となったのですが、その2年後に大友宗麟の工作によって出雲の尼子氏の残党が進出したことで、毛利側は撤退を余儀なくされます。結局、立花城は大友氏の手に戻り、城主に大友氏の家臣である立花道雪(この時にこの名前が与えられる)が任命されます。

[3838]
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答え:肥前
大村純忠(すみただ)は肥前(現在の長崎県と佐賀県の一部)の領主で、日本最初のキリシタン大名。

[3839]
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答え:2
2つ雁金と呼ばれる家紋です。

[3840]
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答え:服部半蔵
服部半蔵は何代か同名の人物がいて、正成は2代目の服部半蔵。

[3842]
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答え:ぶんろく(文禄)
2度の朝鮮出兵のうち、1592年のが文禄の役。1598年のが慶長の役。

[3843]
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答え:愛
直江兼続は上杉の家老で、米沢藩をおさめました。鎧の名前は、「金小札浅葱糸威二枚胴具足」
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Noae_Kanetugu_Yoroi.jpg

[3844]
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答え:4.(米沢藩)
秀吉の死後、秀吉の五奉行石田三成と懇意であったことから、家康と対立するようになり、家康は1600年景勝討伐を目的として会津攻めを行います。関ヶ原の戦いで三成が敗れると景勝は家康に降伏し、米沢30万石に減封処分とされ、米沢藩の初代藩主となります。

[3846]
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答え:きちょう
帰蝶。斎藤道三の娘で信長の正室。

[3849]
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答え:ろく
真田氏の旗印は銅線が縦×横:2×3で並んだものです。六道の地蔵菩薩にわたしことから、六道銭ともいわれます。

[3850]
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答え:うやまひさかね
宇山久兼。尼子義久は出雲の戦国大名。宇山久兼は代々尼子家に仕えてきましたが、毛利の尼子攻めの折、義久の家臣である大塚与三衛門が「宇山が毛利に寝返ろうとしている」と噂を流したことで、久兼は義久に殺されてしまいます。尼子氏のお家騒動により、尼子軍は総崩れとなり滅亡へとたどることになります。

[3851]
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答え:おだうらくさい
織田有楽斎。有楽斎は茶名で、本当の名前は織田長益。織田信秀の十一男で、信長の弟にあたります。千利休に弟子入りし、茶人として有名です。

[3852]
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答え:なくるみじょう
名胡桃城。現在の群馬県みなかみ町にあった城で、真田氏沼田城の支城。真田昌幸(まさゆき)は武田氏をはじめ多くの大名に使えた大名で、真田幸村の父にあたります。1589年に真田領としてあった名胡桃城が北条氏によって奪取されたしまうことにより、秀吉の惣無事令(大名間の私闘を禁じたもの:1585年)に違反したとして、秀吉に北条討伐の口実を与えてしまうことになります。

[3853]
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答え:1,2(明智光秀、丹羽長秀)
丹羽長秀の苗字は「たんば」ではなく「にわ」と読みます。織田信長の天下統一に貢献した4人の武将を四天王と呼び、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人です。朝倉義景ははじめから信長に敵対し、一乗谷城の戦いにより討たれてしまいます。

[3854]
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答え:九十九髪茄子
つくもなす。もともとは三代将軍足利義満のものでしたが、松永久秀から信長、秀吉、家康らの手にわたりました。
参考:http://www9.nhk.or.jp/anime/hyouge/meihin/archive01.html

[3855]
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答え:安井
安井道頓。道頓堀を作った商人。土木工事のスペシャリストでしたが、大阪夏の陣に巻き込まれて討ち死にしてしまいます。

[3856]
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答え:132(三河物語-大久保彦左衛門、信長公記-太田牛一、天正記-大村由己)
三河物語は1622年に大久保彦左衛門によって書かれたもの。安彦良和の同名の漫画は、三河物語そのものではなく彦左衛門の三河物語の執筆に関するストーリーです。
信長公記は信長の室町幕府上洛から本能寺の変までの公式記録。作者は太田牛一で、信長の秘書官を務めた人物です。
天正記は秀吉の伝記で、1582年から大村由己によって書かれました。後の小瀬甫庵『太閤記』に大きな影響を与えた軍記物語です。

[3857]
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答え:123(安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄)
それぞれ斎藤氏に仕え、後に織田信長の家臣となり美濃三人衆と呼ばれました。

[3858]
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答え:2.(伊達政宗)
こういうすましてカッコつけた句はたぶん伊達政宗だろうなと思ったら正解。他の人の辞世の句は、
 上杉謙信:極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
 斎藤道三:捨ててだに この世のほかはなき物を いづくかつひの すみかなりけむ
 武田信玄:大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
それぞれの人柄がよく現れているといえますね。

[3859]
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答え:1.(大内義隆)
周防国でほぼ確定できるでしょう。周防は現在の山口県中南部。もともと遣明船は室町幕府が行なっていたものですが、室町幕府が衰退するにつれ徐々に有力大名や有力寺社のもとで行われるようになっていきます。ここで登場したおもな大名が堺の細川氏(細川氏自体は四国の大名ですが)、山口・博多の大内氏です。両者は遣明船の権益保証や貿易権をめぐって次第に対立するようになり、明の寧波で現地の役人を巻き込んだ武力衝突が発生。これにより明の対日感情が悪化し、遣明船は一時中断されますが、のちに大内義隆によって復活されます。
大内義隆は家臣・陶晴賢の反乱により1551年に殺害されてしまいます。

[3860]
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答え:釣り野伏せ
茂みの中に伏兵を仕掛け、先鋒隊がわざと負けて伏兵を仕込んだところまで退却し敵をおびき寄せ、敵がよってきたところを伏兵で一網打尽にするという戦法。

[3861]
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答え:×
淀殿は信長の妹であるお市の方と浅井長政の間の娘で、浅井三姉妹の長女。

[3862]
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答え:じゅけいに
寿桂尼。今川家四代にわたり政務を担当。

[3863]
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答え:七難八苦
尼子家の家臣・山中鹿之助が尼子家が没落していく中で、三日月に向かって祈ったもの。山中鹿之助は尼子十勇士の筆頭で、毛利による尼子討伐以降も尼子氏再興につとめた武将です。

[3864]
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答え:ほしいい
干飯。干は「ほす」と読み、飯は長野県飯田市のように「いい」と読みます。炊いたうるち米をそのまま天日で乾燥させたものらしいです。

[3865]
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答え:1.(長宗我部氏)
4番の長宗我部元親が一番有名。長宗我部氏は土佐(現在の高知県)をおさめた戦国大名。長宗我部兼続は元親の祖父、長宗我部盛親は元親の四男、長宗我部国親は元親の父。

[3866]
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答え:×
鉄砲を伝来させたのはポルトガル人。1543年に種子島に。鉄砲を日本に持ち込んだといわれる2人は、フランシスコとキリシタダモッタといわれます。

[3867]
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答え:1.(長良川の戦い)
斎藤家の家督問題で起こった戦い。斎藤道三と嫡男・義龍あいだの戦いで、この戦いで動産は討ち死に。長良川は木曽三川のひとつで、東から数えて2番目の川。岐阜県唯一の新幹線駅のある羽島市は、この長良川と木曽川に囲まれ、これらは下流で合流することから、三角地帯のような場所にあります。

[3868]
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答え:いせしんくろう
伊勢新九郎。北条早雲の最初の元服の名前。もともと備中の伊勢氏のもとに生まれたからとか。

[3869]
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答え:正勝
蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)。秀吉の重臣で、後に阿波(現在の徳島県)の国を収める大名となります。阿波おどりの起源ともいわれる城は、徳島市の中心部にある徳島城築城のときのもの。

[3870]
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答え:23(松永久秀、北条早雲)
戦国三梟雄:北条早雲、斎藤道三、松永久秀。松永久秀は大和の大名で、はじめは三好長慶のもとに仕えましたが、永禄の変で三好三人衆とともに13代将軍・足利義輝を討ち下克上を果たします。斎藤義龍は父の道三とお家騒動を起こして後継の座を獲得したので、厳密には下克上ではありません。

[3871]
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答え:杉谷善住坊
すぎたにぜんじゅぼう。鉄砲の名手でしたが、激怒した信長の命によって後に発見され、岐阜城で生き埋めにされ鋸挽きの刑に処せられます。

[3872]
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答え:四季山水図巻
全長10メートル以上の水墨画で、雪舟晩年の作品。

[3873]
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答え:大谷吉継
おおたによしつぐ。越前国敦賀城主。豊臣氏に仕え、石田三成の盟友として知られます。

[3875]
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答え:1.(松平広忠)
家康の父は松平広忠(ひろただ)。松平元康は家康のこと。松平利長は広忠の大叔父。松平容保(かたもり)は、時代が違って幕末の京都守護職。会津藩最後の藩主。

[3876]
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答え:しが(志賀)
普通は姉川の戦いの方を聞いてきますが、だいぶ問題がマニアックに。姉川の戦い以降、浅井・朝倉が比叡山に籠城した戦いです。この戦いで比叡山への信長の幾度にも渡る通牒を無視したことから、翌年信長の手によって延暦寺が焼き討ちされてしまいます。

[3877]
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答え:D.(前田慶次郎)
花の慶次の人。前田利家の甥に当たります。「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」は浪人時代の名前(自称)。『一夢庵風流記』は隆慶一郎による歴史小説で、原哲夫による漫画『花の慶次-雲のかなたに-』の原作となったものです。

[3878]
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答え:弘治
弘治(こうじ)の内乱。畠山義綱は能登(現在の石川県能登半島部分)の戦国大名。畠山七人衆は畠山氏の重臣たちのことで、7人の合議制によって政策運営がなされていました。弘治の内乱以降この体勢が徐々に崩壊していくことになります。
プロフィール

こしあん

Author:こしあん
(:3[____]
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